西川長夫著 「[増補]国境の越え方」(平凡社,2001[1992])

Ⅱ ヨーロッパのオリエント観

【要約】
この章ではサイードの『オリエンタリズム』を異文化の交渉という観点から読み直す。その上でサイードが東洋−西洋、われわれ−彼らという二項対立を強調するあまり、見逃してしまった解決への道程を探ることを目指す。

ここでは『オリエンタリズム』の中から3つのシーンを取り上げる。一つはダンテの『神曲』の中に表れるイスラームキリスト教という宗教上の問題であり、次にフローベールロマン主義者におけるオリエントという問題である。そして最後にマルクシズムが陥ってしまったオリエンタリズムという問題を取り上げる。
『東洋全書』でのムハンマドに関する記述に代表されるように、イスラーム(東洋)はキリスト教(西洋)によって位置づけられ、性格づけられてきた。このような西洋による東洋の図式化が最も劇的に為されたのが、ダンテの『神曲』であった。サイードはダンテの世界観の中でムハンマドがどのように描写され、位置づけられているのかを説明することで、キリスト教世界におけるイスラームの意味を示唆する。それは異文化が「他者」として形成されていく過程であり、「ヨーロッパとオリエント(特にイスラーム)の遭遇によって、オリエント(イスラーム)はアウトサイダーの典型となり、中世以降ヨーロッパ世界はこれに対抗する形で形成されていった」。このような2つの世界が遭遇することで逆説的に両者の距離が広がっていくという点は注目に値する。両者はともに「自分の殻に閉じこもってしまう」のである。しかし、ここで〔例えば日本人などの〕もう一つの観点を導入すると、キリスト教イスラームの相違点よりも寧ろその共通点が際立ってくる。
オリエントはロマン主義的な理念と夢想の対象であり、源泉だった。サイードはここで、オリエントへの巡礼者の内的な葛藤とその間隙に忍び込むオリエンタリズムに注目する。オリエントに対する西洋人のスタンスは大まかに言えば2つに分けられる。一つはイギリス人的な、政治的統治者としての観点であり、もう一つはフランス人的な観点である。オリエントの政治的統治者でなかった彼らはこの地において、深い喪失感に襲われた。オリエントにおけるフランスの不在とイギリスの存在は、19世紀以降発動されるフランスの「教化の使命」の切欠にもなる。シャトーブリアンのオリエント訪問について、その動機の一つに「事物をあるがままにではなく、彼の意図した通りに見る必要性」があったことをサイードは発見する。その帰結として彼はオリエントにおいて、東洋は征服される必要があり、それは征服というよりも解放というべきなのである、という論理を主張するようになる。こうしてオリエントにおいて一度は喪失した自我が再構築されるとき、彼はオリエントを表象し、それに代わって語る存在となる。
これ以降のフランス人巡礼者の多くはこのシャトーブリアンの影響を大きく受けることになる。その例外的な存在が、ネルヴァルやフローベールである。彼はネルヴァルのオリエントに対する強烈な個人的欲求がオリエンタリズムに屈しなかった故に、一方、フローベールについてもオリエントの「不可解さ」(それはシャトーブリアンらによっては簡単に解決されるものであった)を解決しようとはせず、ひたすらそれを観察し続けた故に、それぞれそれ以前のオリエント観から脱却できたと評価する。ただ、それに続けてサイードは彼らのオリエント観ですら、「我々の世界」とはかけ離れた世界としてオリエントを見なしていた点で結局はオリエンタリズムに帰結すると結論づける。
次いで、サイードマルクスのアジアに関する論説から、彼のオリエント観が当時のロマン主義的な潮流の影響を受けていたことを明らかにする。自らの倫理的観点に基づいてイギリスの植民地主義支配を非難してきたはずのマルクスがなぜ旧来的な東西不平等論に陥ってしまったのか。この答えとしてサイードは、人間を集合的見地から一般化、類型化して捉える人間観、と彼が使用せざるを得なかった語彙自体に内包されていたイデオロギー性という2つのファクターを取り上げる。それ故に彼の思考・理論には本質的にオリエンタリズムと共通するものがあったのではないか。それは具体的には「文化」・「文明」という概念であり、所謂「発展段階説」であった。マルクスの言説の根底にはこのような西欧中心の文明概念が存在していた。サイードの言うオリエンタリズムとはすなわち、この西欧中心的文明概念とそれに基づいた抑圧システムのことではないだろうか。ここで提起される問題はただ西洋−東洋の図式の中のみにあるのではなく、地球上の様々な問題と広く通底するものだろう。

このようにサイードオリエンタリズムの定義はそれまでとは大きく異なるものであった。それは西洋の側から見たオリエンタリズム概念を、東洋からのそれに置き換える作業だったといえるだろう。ただ、彼の議論を追っていくと、〔それ自体は様々な場面を切り取ったものなのだが〕常にそれが一つの結論に終始し、更にその解決の糸口が見出されない点に気がつく。これはサイードが、西洋−東洋という二項対立を繰り返し強調することで、オリエンタリズムに内在する差別の支配の構造を暴き出すことを意図していたためと考えられるが、この意図があまりに劇的に成功してしまったため、彼のオリエンタリズム論はその出口を失ってしまう。オルタナティヴの体系を提示できなかったサイードが最終章で「異文化とは何か?」を問うているのは、彼が議論を進める際に「文明」や「文化」といった概念のなかに含まれる攻撃性やイデオロギー性が議論を進めていく中で露呈し始め、それらの概念にサイードが疑問を持つようになったためだろう。『オリエンタリズム』のなかでサイードが薄々感づいてるように、「知」や「文化」といった概念には本来的に他者に対する支配の意思が含まれている。それはオリエンタリズムと通底するものといえよう。彼が『オリエンタリズム』のなかで文化間交渉の際に生じる「変形」を東洋→西洋という一方的なもので捉えてしまったのもこのような概念自体のイデオロギー性に無自覚であったためだろう。
このようにサイードオリエンタリズム論は、単にオリエンタリズムという観念体系を暴き出すだけではなく、それを支えた既成概念の危うさを露呈することによって、新たな文化理論の必要性とその方向性を示唆したのであった。

【引用】
「いわゆる国際化や異文化交流が、つねに友好と平和のなかで人道主義的に行われているものではなく、しばしば流血を伴う暴力的な行為であること」(p.72)
「二つの世界が遭遇する事によって、両者の文化的、知的、精神的な距離がいっそう広がるという文化交流史のパラドクス」(p.78)
「オリエントはキリスト教に限らず、ロマン主義的な理念と夢想の対象であり源泉ともなった」(p.81)
「「不可解さ」を解決するのは既成のイデオロギーである」(p.91)
「一個人の内的な問題も、それが大勢の人びとによってくりかえされれば一つのクリッシェとなり、大衆文化のなかで商品化される」(p.95)
「サイードオリエンタリズムと呼ぶ西洋人の意識構造は、日本を訪れる西洋人の場合も根本においてはそれほど変わっていなかった」(p.97)
マルクス自身の思想や理論には、本質的にオリエンタリズムと共通するものがあったのではないか」(p.107)
「サイードオリエンタリズムと見たものは、より本質的には西欧的文明概念ではなかったか」(p.108)


【コメント】
要約というよりも内容説明という感じになってしまったが、非常に内容の濃いものであった。『オリエンタリズム』を改めて読み直す必要性を強く感じた。
イードがそして西欧がいうオリエントとは何処のことなのだろうか。それを定義するのはまさしく西欧であるが、確かに中近東と日本ではオリエンタリストへの対応が全く異なるだろう(仮にオリエンタリストがそこに求めているものは同じだったにせよ)。「文化」・「文明」の暴力性には我々は無頓着である。そしてその無頓着さが現実に物理的な暴力を生み出してしまうことを忘れてはならないだろう。「文明化」とは社会における非暴力化などではなく、その暴力を隠蔽する過程なのかもしれない。

【参照すべき文献】
・E.サイード 「オリエンタリズム」(平凡社,1993[1978])
福沢諭吉 「文明論之概略」(岩波書店,1962[1875])
などなど

〔増補〕国境の越え方 (平凡社ライブラリー)

〔増補〕国境の越え方 (平凡社ライブラリー)