Miles, Robert and Brown, Mlacolm (1989,2003) RACISM Second edition, London;Routledge

 Introduction(3-18)


(Said 1983からの引用 省略)

多くの社会科学的な概念と同様に、レイシズムは普通に用いられ、意味をもつものである。ここ50年くらいの間で、レイシズムは日常の言説においても、また社会学理論においても重要な概念となった。「コモンセンス」にまつわる言説を構成する他の要素と同様、そのような日常言語の大半は批判的ではなく、自明のものとして捉えられてきた(Gramsci,1971)。しかし、それと同時にレイシズムという概は、道徳的にも政治的にも、とてもネガティヴで危険な要素を孕むものとされている。それゆえ、誰かがレイシストの意見を表明したと主張する事は、その人が非道徳的であり、恥ずべき者であると弾劾する事になる。つまり、レイシズムは政治的な悪態(political abuse)の用語へと変化を遂げたのである。そしてこの事が、社会学者によるレイシズム概念の使用をひどく困難なものにさせてしまっている。どんな概念であろうと、その概念を明確に定義する事は、学術研究にはもちろんのこと、政治的もしくは道徳的な議論の場においても極めて重要である。
この本の基本的なテーマは、社会科学的な分析においてレイシズムという概念の使用を継続する必要性を詳述することであったのだが、この本の初版はそれとは異なる2つの議論が注目された。それは、一つはレイシズムという概念の定義をめぐる議論であり、もう一つは“race relations paradigm”への批判であった。レイシズムを定義しようとする事は、衒学的で時代錯誤的と思われるかもしれないが、政治的・道徳的な議論と具体的に結びついている。ゴールドバーグ(1993)は、レイシズムの定義について演繹的仮説ではなく経験的な観察に基づく“地に足の着いた”ものでなければならないと主張している。このような主張は説得力があり、20世紀哲学におけるヴィトゲンシュタイン的な感覚とも合うものではあるが、次の挙げるような“政治的な”規範のようなもの(imperative)とのバランスを保つ必要があるだろう。仮にレイシズムが政治的に、若しくは道徳的に許されない事と定義されているならば、そこには「レイシズムとは何か」についての合理的なコンセンサスが存在しているはずである。
レイシズムを定義する事は、為された言説がレイシスト的であるか否かを決定する単一な基準を立ち上げる事ではない。しかし、定義抜きでは、その概念は意味のないものになり、レイシズムへの対抗は妨げられてしまう。とはいえ、もしレイシズムがあまりに広く定義されるならば―例えば「すべての白人は、レイシストである」や「みんながみんなレイシストである」というように―、その概念は再び無意味なものとなり、レイシズムは非難から免れてしまう。